大岩3区 暗誦の会テキスト

出典 「羅生門」 芥川龍之介

 ある日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待っていた。

 広い門の下には、この男のほかに誰もいない。ただ、所々丹塗の剥げた、
大きな円柱に、蟋蟀が一匹とまっている。羅生門が、朱雀大路にある以上は、
この男のほかにも、雨やみをする市女笠や揉烏帽子が、もう二三人はありそうな
ものである。それが、この男のほかには誰もいない。

 何故かと云うと、この二三年、京都には、地震とか辻風とか火事とか饑饉とか云う
災がつづいて起った。そこで洛中のさびれ方は一通りではない。旧記によると、
仏像や仏具を打砕いて、その丹がついたり、金銀の箔がついたりした木を、
路ばたにつみ重ねて、薪の料に売っていたと云う事である。洛中がその始末で
あるから、羅生門の修理などは、元より誰も捨てて顧る者がなかった。するとその
荒れ果てたのをよい事にして、狐狸が棲む。盗人が棲む。とうとうしまいには、
引取り手のない死人を、この門へ持って来て、棄てて行くと云う習慣さえ出来た。
そこで、日の目が見えなくなると、誰でも気味を悪るがって、この門の近所へは
足ぶみをしない事になってしまったのである。

 

<読み方>
 あるひのくれがたのことである。ひとりのげにんが、らしょうもんのしたであめやみをまっていた。

 ひろいもんのしたには、このおとこのほかにはだれもいない。ただ、ところどころにぬりのげた、
おおきな
まるばしらに、こおろぎがいっぴきとまっている。らしょうもんが、すざくおおじにあるいじょうは、
このおとこのほかにも、
あめやみをするいちめがさもみえぼしが、もうにさんにんはありそうな
ものである。それが、このおとこの
ほかにはだれもいない。

 なぜかというと、このにさんねん、きょうとには、じしんとかつじかぜとかかじとかききんとかいう
わざわいがつづいておこった。そこでらくちゅうのさびれかたはひととおりではない。きゅうきによると、
ぶつぞう
ぶつぐうちくだいて、そのがついたり、きんぎんはくがついたりしたきを、
みち
ばたにつみかさねて、たきぎしろにうっていたということである。らくちゅうがそのしまつ
あるから
らしょうもんしゅうりなどは、もとよりだれもすててかえりみるものがなかった。するとその
あれ
てたのをよいことにして、こりむ。とうとうしまいには、
ひきとりてのない
しびとを、このもんにもってきて、てていくというしゅうかんさえできた。
そこで、
がみえなくなると、だれもきみをわるがって、このもんのきんじょへは
あしぶ
みをしないことになってしまったのである。(574字)


<朗読例>
 http://www.voiceblog.jp/kiyo22/car1.html