大岩3区 暗誦の会テキスト
出典 「蜘蛛の糸」 芥川龍之介
ある日のことでございます。おしゃかさまは、極楽のはすの池のほとりを一人でぶらぶら
お歩きになっていました。池に咲いているはすの花はみんな玉のように真っ白で、真ん中の
金色の部分からは、なんともいえないよい香りがあたりにあふれておりました。
極楽はちょうど朝なのです。
やがておしゃかさまは池をめぐる道の途中で立ち止まり、水の面を覆っているはすの葉の
間から下の様子をじっとごらんになりました。極楽のはす池の下は、ちょうど地獄の底になり、、
水晶のような水を通して三途の河や針の山の様子がよく見えるのです。
その地獄の底にカンダタという一人の男が、他の罪人とともにうごめいている姿がおしゃかさま
の目に入ったのでございます。この男は、盗みはもとより、殺人や放火など悪業の限りを
つくしたのですが、たったひとつ、よいことをしたことがあるのです。あるとき、この男が深い林の中
を歩いていると、小さな蜘蛛が、道端を動いておりました。カンダタは、足で踏み殺そうとみそうと
しましたが、「いや、いや、こんな小さな生物でも一生懸命生きているんだ。むやみにその命を
取るのはかわいそうだ」と思いして、その蜘蛛を助けてやったのです。
おしゃかさまはカンダタの様子をごらんになり、彼がこの蜘蛛を助けてやったことを思い出されました。
たったそれだけでもよいことをしたのだから、できることならこの男を地獄から救い出してやろうと
お考えになりました。幸いすぐそばのひすい色のはすの葉で、極楽の蜘蛛が一匹、美しい銀の糸を
紡いでおります。おしゃかさまはその糸をそっと手にお取りになり、花の間からはるか地獄の底へ
まっすぐ、静かにお下ろしになりました。
<読み方>
あるひのことでございます。おしゃかさまは、ごくらくのはすのいけのほとりをひとりでぶらぶら
おあるきになっていました。いけにさいているはすのはなは、みんなたまのようにまっしろで、まんなかの
こんじきの部分からは、なんともいえないよいかおりがあたりにあふれておりました。
ごくらくはちょうどあさなのです。
やがておしゃかさまはいけをめぐるみちのとちゅうでたちどまり、みずのおもてをおおっているはすのはの
あいだからしたのようすをじっとごらんになりました。ごくらくのはすいけのしたは、ちょうどじごくのそこになり、
すいしょうのようなみずをとおしてさんずのかわやはりのやまのようすがよくみえるのです。
そのじごくのそこにカンダタというひとりのおとこが、ほかのざいにんとともにうごめいているすがたがおしゃかさま
のめにはいったのでございます。このおとこは、ぬすみはもとより、さつじんやほうかなどあくごうのかぎりを
つくしたのですが、たったひとつ、よいことをしたことがあるのです。あるとき、このおとこがふかいはやしのなか
をあるいていると、ちいさなくもが、みちばたをうごいておりました。カンダタは、あしでふみころそうと
しましたが、「いや、いや、こんなちいさないきものでもいっしょうけんめいいきているんだ。むやみにそのいのちを
とるのはかわいそうだ」とおもいなおして、そのくもをたすけてやったのです。
おしゃかさまはカンダタのようすをごらんになり、かれがこのくもをたすけてやったことをおもいだされました。
たったそれだけでもよいことをしたのだから、できることならこのおとこをじごくからすくいだしてやろうと
おかんがえになりました。さいわいすぐそばの、ひすいいろのはすのはで、ごくらくのくもがいっぴき、うつくしいぎんのいとを
つむいでおります。おしゃかさまはそのいとをそっとてにおとりになり、はなのあいだからはるかじごくのそこへ
まっすぐ、しずかにおおろしになりました。(809字)